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2015.01.03 (Sat)

「じか」に

今私が思っていること。

「澄まし処」「はなす・ま」といった場において
何かのコミュニケーション技術や、
相手に対してこうなってほしい、こうしてほしいという思惑みたいな
なにかを挟まずに、向き合いたいと思っています。

昨日古本屋で買った本がそのことにリンクしており、
深く深くうなづきながら読みました。

そうか、私が思っていることは、「じかに」という言葉でいいんだ。

竹内敏晴 『「出会う」ということ』藤原書店

第一章<じか>であること

p14「哲学者メルロ=ポンティは、社会のルールを構成する、精密に組み立てられた、情報伝達のための言語と、今生まれ出てくる「なま」なことば、子どもが母に呼びかけたり、恋人への愛の告白や詩など、人のいのちの表現としての言葉とを区別する。かれは後者を第一言語とし、それが使い古されて社会に定着した用語による前者を第二次言語と呼ぶのだが、これこそ百鬼夜行の壮麗な迷宮だ。それならさらに、とわたしは思う。うまくことばにならない身悶えやうめき声や叫びなどを第〇次言語と読んでもいいだろう。子どもは(そしてことばの不自由なものも)もともとこの世界に棲んでいる。」

「はなす・ま」や「澄まし処」の「15分」には第二次言語を経て第一次言語が現れてくることがある。
その前提としての第〇次言語まで視野に入れられたら。

p24「治療や指導の対象として観察しようとするのではなく、まず、その子の身になってみて、その息づかいを感じ、その子の目で世界をみてみようとする、その姿勢が大切なのだと思う。わたしがただひとつ提案したい「方法」である」
(4歳の娘と母親の関係についての文章)

レスポンスが、それにあたるなあ。
本当なら、体丸ごと、がいいのかもしれない。
特に子どもたちに向かう時、寄り添う時には。

p24「しかし考えてみると、わたしのやってきた からだとことばのレッスン は設定された目的を達成するための技術を習得する方法ではない。自分自身への問いかけと、気付きーつまり新しく開かれた世界ーへの、出発のくり返しにすぎない。
 今わたしにわずかに見えること、言えることは、人が「じか」であること、だけだ」。

人が「じか」であること…人と「じか」に会って、生きていくこと、をしていきたい。

14:27  |  徒然
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