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2013.03.10 (Sun)

日常の行為に

最近「思い」を書くことがなかったなあと思って。
子どもたちは子ども会へ、夫は仕事場へ、
行ってしまった日曜のお昼に、ちょっと徒然なるままに…

古新聞でパッと目についた記事は
「ご縁があるかも」と思って読むようにしています。

昨日目についたのは「道元に学ぶ生き方」。
頼住光子さんという方の寄稿(2月2日中日新聞朝刊)。

宗教のページなんですが
昔、素通りだったこのページが最近は妙に気になります。

「今しなければいつするのか」「日常の行為に徹せよ」とあります。

道元は以前から気になっていました。
禅を優しく紹介する本などで
道元のことを読んで感じるものがあり、
「食育の原点は彼の『典座教訓』だ!」という本なども
読んだりして、一度ちゃんと勉強したいと思いながら
なかなか、です。
でもこうやってまた出会ってしまう、道元さん。
やっぱり私が学ぶべきことなんだろうなと思います。

文章では、道元が中国留学したときに出会った老典座との
有名なエピソードが書かれています。

典座(てんぞ)は禅寺の炊事を担当する僧ですが
道元が出会った年老いた典座は暑い中、
「今ここでなすべきことを一心に」行っていた。
お付きのものにやらせてもよさそうなことを。
涼しくなってからでもよさそうなことを。

道元は彼とのやり取りにおいて、
台所仕事をはじめ、日常の一つ一つの行為こそが修行であり、
坐禅と同等の意味を持つんだということを理解した、というものです。

記事から。
「私たちがこの世でおこなう行為のほとんどは、何かのための手段である。たとえば、勉強するのは、いい学校に入るため、いい学校に入るのは、いい会社に入るため…このように手段ー目的の連鎖が限りなく続き、その連鎖の中に居る人間は、つねに目的達成のために追い立てられ、手段としての行為を、果てしなく積み重ねていくしかない。
このような連鎖を断ち切るのが、坐禅なのである。そして、もし、日常の一つ一つの行為を坐禅と同じように、何かのための手段ではなくて、それだけで充実した行為としておこなうことができるのであれば、それは坐禅とおなじく禅の修行としてたいせつな行為となる」

「道元が老典座のエピソードを通じて私たちに語っているのは、「何かに役立てよう」「何かにならなければ」という考えからいったん離れて、今、ここ、この私に徹せということではないだろうか」

やることにランクをつけている自分を省みます。
もっと身の回りのこと、家事を大事にしなければと
思いながらできていないなあ。

先日来客のため家を片付けたのですが、
その時のさっぱり感と幸せ感を
ほんとは毎日だって味わえるチャンスがあるのに
私はもったいないことしてるのかもなあと思わされます。

そして「○○のため」の行為でなく、「それだけで充実した行為」が
できたら、人はホントに幸せだろうなあと思います。
そのヒントを私はもう、少し手に入れているのかもしれないなあと思います。
13:15  |  徒然
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